きつつき戦法の失敗により急ぎ妻女山を下り、本隊の救援に駆けつけようとする武田別働隊を描いた作品である。千曲川を一番に渡るのは真田昌幸とある。図中の記述にあるように昌幸は真田幸隆の三男で史実によればこの戦が初陣、十五歳であった。永禄四年(1561)の戦いでは信玄の近習として本陣中央にあったといわれる。また昌幸はこのころは武藤喜兵衛と称していた(武田二十四将の一人。武藤氏は甲斐の旧族であり跡取りの無い武藤家を継いだ)。妻女山攻撃隊には信州先鋒衆旗頭として父の幸隆が加わり、千曲川渡河では越後甘粕隊の防備を破る先鋒を果たしたと甲陽軍艦は伝えている。 |
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昌幸はのちに、長篠の合戦で戦死した二人の兄(信綱・昌輝)の後をついで真田家を継ぎ、武田氏滅亡後上田城によって独立した。天正13年(1585)、上田城にこもって徳川家康の大軍を退け、また、慶長4年(1599)には徳川秀忠の大軍を防いで関が原の合戦に遅れさせたことは有名である。おそらく、昌幸の人気は江戸時代にも相当に高く、絵の販売戦略上あえて幸隆ではなく『昌幸一番乗り』としたのではないかと推測される。
一方、武田軍を防ごうとしている上杉の将は直江山城守兼続とある。しかし、上杉軍の殿軍(しんがり)として武田夜襲隊を千曲河畔で防いだ武将は前述のように甘粕近江守景持であるはずだが…。 |