《クリックで拡大》 | 川中島百勇将戦之内義将・武田左馬之助 | Next⇒次を見る |
一勇斎国芳 大判錦絵 | 絵師紹介 | |
刊年:天保十四年〜弘化四年 版元:小島屋 |
信虎の次男で信玄の同母弟である。武田の副将であり信玄の片腕として活躍し、まれに見る名将であった。特に武田軍の騎馬戦を強くしたので当時の大名や豪族は武田軍を大変恐れていた。信繁公の書いた武田家訓が遺され、また、文武両道に優れていたので家臣の人望もすこぶる高かった。幼少のころ、父信虎は信玄よりも弟の信繁を愛し跡目は信繁にと考えていたが、信繁公は兄弟愛の道を大切にされ、兄信玄の名補佐役として活躍した。信玄の影武者を務めたことでも有名である。 永禄四年九月十日、本陣に押し寄せる上杉勢に武田劣勢とみた信繁は兄の危急を救わんと、「私が敵の攻撃を防いでいる間に勝つ算段をお考えくださるように」と使者を送り、自分の黒髪と母衣を形見として嫡男信豊に手渡すようにと家臣に託し敵中に突入したのである。討死は宇佐美駿河守定行の郎党が放った鉄砲弾があたり落馬、すかさず宇佐美定行に槍で突かれたもので、自らの旗と信玄の御旗を立て替えさせ敵に向かったとも伝わる。 典厩信繁、左典厩、古典厩(長男信豊があとを継ぎ典厩と称した)などといわれるが、正式名は武田左馬助信繁である。また、大阪の陣で有名な真田幸村公の本名は、典厩信繁公の武勇にあやかり真田信繁と名づけられた。 信繁公の墓は長野市篠ノ井、典厩寺にある。 |
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