■八幡社鳥居

|
|
第4次川中島合戦の際に武田本陣が置かれたとされる場所である。
妻女山を下り雨宮の渡しを秘かに越えた上杉勢の中から単騎乗り込んできて信玄に切りつけた武者について、後に武田陣営で上杉謙信ではなかったかと噂になり、ついには両将一騎打ちの伝説を生んだ地でもある。
しかし両軍激突の最前線は、この地から2、3km西方とされ、オリンピック記念スタジアム(南長野運動公園)付近で武田方の武将山本勘助が討死したと伝説されている(墓はこの公園の東側を流れる千曲川の対岸河川敷にある)し、そこからさらに西に国道を挟んで「合戦場」の地名が残っているなど、そちらの一帯が激戦地であったことを物語る。
この史跡公園内には武田軍が、この前で討ち取った敵将兵の首実検を行い、勝鬨を上げたとされる八幡社境内がある。
写真は境内入り口の鳥居。 |
■両雄一騎打ちの銅像

|
|
永禄四年(1561)九月十日、八幡原を中心に上杉、武田両軍三万余の壮絶な死闘が展開された。
上杉謙信は紺糸縅の鎧に萌黄緞子の胴肩衣、金の星兜に立烏帽子白妙の練絹で行人包、長光の太刀を抜き放ち、名馬放生に跨り戦況の進展に着目、乱戦で武田本陣が手薄になったのを見、旗本数騎を連れ信玄の本営を強襲したのである。この時の信玄は諏訪法性の兜、黒糸縅の鎧の上に緋の法衣、軍配を右手に持ち、崩れかかる諸隊を激励指揮していた。
この信玄めがけて謙信は只一騎、隼のごとく駆け寄りざま、馬上より流星一閃、信玄は軍配で受けたが、続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負ったといわれる。 |
浮世絵を見る⇒川中嶋合戦 |
■三太刀七太刀の碑

|
|
後にこの軍配を調べたところ刀の跡が七箇所もあったといわれ、この一騎打ちの跡を世に三太刀七太刀の跡という。大正時代に建碑された。 |
■執念の石

|
|
武田・上杉両軍三万余の死闘を展開した川中島合戦、作戦の失敗から諸戦の劣勢を余儀なくされ、身辺が手薄になった
信玄めがけて切り込む謙信の鋭い切っ先に、あわや信玄も八幡原の露と消えようとした間一髪、武田軍の中間頭原大隈
が、傍らにあった信玄の持槍、青貝の長柄を取って馬上の謙信をめがけて一槍突き出した。苛立った槍は鎧の肩の上に
それ、返す槍で謙信の鎧の肩を斜右上から力いっぱい打ち下ろしたがまたも外れて馬の三頭をしたたか打ったので、
馬は驚き跳ね上がってその場を狂奔し去ったため信玄は危うく虎口を逃れることが出来た。一方謙信を取り逃がし無念
やるかたない原大隈は、傍にあったこの石を槍で突き通したといわれる。 |
浮世絵を見る⇒武田三代記・信州川中嶋大合戦 |
■八幡社と逆槐の巨木

|
|
山本勘助の進言による「キツツキ戦法」の採用を決定した武田信玄は、永禄四年(1561)九月九日夜、ここ八幡原に 上杉軍挟撃の陣地を構えた際、この場所に土塁を積み重ね、やぐらを組み、盾をめぐらして本陣をおいた。
このとき土塁の土留めに自生の槐の杭を根を上にして打ち込んだのが芽を出し、その後約四百年を経てこの巨木に 成長したものと伝えられる。周囲に低い土塁の跡が見えるのは、信玄本陣を示す枡型陣形跡である。
武田軍が、この前で討ち取った敵将兵の首実検を行い、勝鬨を上げたとされる八幡社。 |
■首塚

|
|
この碑の下の塚は首塚といわれ、この大合戦後、武田方の海津城主高坂弾正が激戦場となったこのあたり一帯の戦死者六千余人の遺体を敵味方の別無く集め、手厚く葬った塚である。
この処置に感激した上杉謙信は後年、塩不足に悩む武田氏に対し、「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり魚塩にあらず」と直ちに塩を送り、この恩に報いたといわれ、乱世に咲いた美挙と褒めたたえられた。
八幡社境内には甲越直戦地と記された碑が建った首塚がもう一つある。昔はこの附近にいくつもの首塚があったが、今残るのはこの二つと公園外だが近くの西側のりんご畑の中にもう1基(一本杉の塚山)
が残るのみである。
|