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1.川中島合戦はなぜ起こった
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甲斐の武田晴信(信玄)は、乱行の目立つ父信虎を追放し実験を握ると、国内をまとめ勢力の拡大を図った。しかし関東や東海地方は強大な北条、今川が君臨していて、とても若い晴信には手が出せる状況ではなかった。それに反し信濃は強力な敵がいなかったため、自然と晴信の触手は信濃へと伸びることとなる。諏訪、木曾、仁科、小笠原など中南信(諏訪・松本地方)を手中にし、いよいよ進軍は東北信(上田〜長野地方)に及んだ。坂城を本拠地とした村上義清は上田原の合戦をはじめ二度までもこの武田軍を撃退した勇将であったが、武田方の真田氏の謀略に遭い、盟友の高梨氏らと共に越後に逃げ、上杉謙信(当時、長尾輝虎)に救援を求めた。武田軍が越後に迫ることに危機感を持った謙信は、村上、高梨氏の要請を受け入れ、「義の為」信濃に出兵し、ここに十一年の長きに亘る川中島合戦の火蓋が切って落とされるのである。
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武田家勇将軍評定之図
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2.川中島合戦は5回あった
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甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信との川中島を挟んでの戦いは、次の五回の対戦といわれる。
第一回:天文二十二年(1553)八月・・・布施の戦い(更級八幡(さらしなやわた)の戦いともいう)
第二回:弘治元年(1555)七月・・・・・・・犀川の戦い
第三回:弘治三年(1557)八月・・・・・・・上野原の戦い
第四回:永禄四年(1561)九月・・・・・・・八幡原の戦い
第五回:永禄七年(1564)八月・・・・・・・塩崎の対陣
この内、第四回目が唯一大規模な激戦となり、両軍に多くの死傷者を出した。通常、川中島合戦とはこの永禄四年九月の対決を指す。浮世絵に取り上げられるのは、この四回めの決戦図と、その少し前、永禄元年五月十五日の両者の対面図の二つと考えてよい。 永禄元年の時には、千曲川を隔て両方の川岸にそれぞれが対面し和睦の話が行なわれる予定であったが、信玄が馬上から床机に座す謙信に話しかけたことから、両者の和解は成立しなかったと甲陽軍鑑は伝えている。
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川中島合戦諸図
五月十五日両将和睦対面図
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【「甲陽軍鑑」と川中島合戦】
甲陽軍鑑とは、武田信玄、勝頼の二代について、合戦、事績あるいは信玄の言葉や行動を記した書。松代・海津城の城主高坂昌信が書いたものを書き継ぎ、江戸時代初期に成立したといわれる。徳川幕府が甲州流軍学を採用した関係上、江戸時代広く読まれ、川中島合戦を描く浮世絵も本書を下敷きとしたものが多い。 |
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3.第四回・川中島合戦の端緒
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上杉本体が妻女山に陣を構えたのに対し、武田本隊は初め茶臼山に、後には海津城に入り、両者対陣こう着状態になる。武田側は決戦を意図するが、謙信は退路を絶たれているにもかかわらず、少しも動ぜず陣内で能を楽しむ有様。実はこれが謙信の作戦であったことに武田方が気付かなかったのが、後の大激戦・悲劇へとつながる。
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川中島大合戦 謙信西条山於テ猿楽興行之図
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4.八幡原の戦い
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武田の軍勢を二つに分け、一隊で謙信布陣する妻女山を襲い上杉本隊が下山するのを待ち受ける本隊と挟み撃ちする、山本勘助進言の「きつつき戦法」を採った信玄であったが、煮炊きの煙の動きから謙信に見破られ、逆手を取られ夜陰にまぎれて山を下り千曲川を渡った上杉本隊から、数を減らした武田本隊に直接攻撃が加えられた。ここに戦国史上最大の死傷者を出す、武田本隊と上杉本隊とが直接対決する大決戦の火蓋が切って落とされたのである。永禄4年9月10日(現在の暦で10月18日にあたる)早朝、おりしも八幡原一帯を覆った特有の深い霧は両軍の近すぎる対峙を引き起こし、大惨劇の下敷きとなった。なお、このとき謙信が採った陣形が「車懸かり」といわれる戦法に基づくものであり、受ける武田の陣形は「鶴翼の陣」であったと伝えられている。 |
※甲陽軍鑑では妻女山を西条山と誤述している。 |
史跡巡り/雨宮の渡し 妻女山
川中島合戦謙信車懸り
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5.影武者伝説
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武田信玄が多くの影武者を従えていたことはよく知られるところである。甲陽軍鑑の中には、上杉謙信がこの影武者の存在がために、一騎打ちを貫徹できなかった旨の記述がある。弟典厩信繁が影武者を努めたのは事実のようである。 |
川中島合戦 備を立直す図
川中嶌百勇将戦之内 義将 武田左馬之助
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6.三太刀七太刀伝説
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妻女山の戦いの最中、武田本隊に単騎突入した上杉謙信は、床机に座した武田信玄めがけて、馬上から三太刀斬りつけた。これに対して、信玄は鉄製の軍配で太刀を防いだが、後で調べると七太刀の刀痕があったという。これが後に三太刀七太刀の伝説といわれるもので、両雄が直接対決するほどの激戦であったことから生じた説話と思われる。 |
川中嶋合戦
史跡巡り/八幡原史跡公園
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7.軍師山本勘助の最後、典厩信繁落命
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八幡原での両軍の激烈な戦いにおいて、その師兵の被害は甚大で、なかでも武田軍は幹部クラスに多くの死傷者が出ている。信玄の弟信繁、諸角豊後、山本勘助、初鹿野源五郎らが討ち死にし、嫡男義信と信玄自身も負傷している。 軍師山本勘助の死は当時の講談、歌舞伎あるいは人形浄瑠璃などの影響で、劇的なものとして数多く描かれている。また武田・上杉両雄を凌ぐ人気を得た結果、その歴史から離れて縦横無尽な働きをし、かえってその実在さえ疑われるほどであった。 |
山本勘助入道晴行小高き丘にて馬蹄をやすむる図
甲越川中島大合戦
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8.川中島合戦はなぜ有名、そして本当?
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川中島合戦を有名にしたのは甲州流兵法書『甲陽軍鑑』である。ここに描かれているのが両雄一騎打ち、啄木鳥の戦法、車懸かり戦法などで、これが川中島合戦の定番となっている。しかし、今日ではこの内容は誤りが多いことが確認されている。一騎打ちについては、いろいろな資料を総合して検討すると、「大変な混戦の中で、上杉方のある武将(謙信ではなく荒川伊豆守?)が信玄に切りつけた。謙信も自ら太刀を抜いて暴れ回っていたので、これが大将同士の一騎打ちとして広まった」のが真相らしい。ただ、大将が刀を抜いて自ら戦うのは極めて希なことで、いかにも謙信らしい。また、車懸かりの戦法は兵法の専門家によれば机上のものであってとても実戦向きではないといわれる。啄木鳥の戦法も実際の現地地形から、伝わるような行軍は無理だったのではないかとするむきもある。しかし400年以上昔のことで誰も見たものはいない。現代の情報化時代にあってさえ本当のことはよく分からないのだから、歴史上のことは川中島に限らずある程度推測に頼らざるを得ない。もちろん、学術的研究の面では遺物、史料などをもとに真相を追究すべきであることは言うまでもないが、長く伝えられた伝聞は、それがフィクションであったとしてもひとつの文化としての価値を持っているものと思われる。川中島合戦が庶民の文化として浮世絵に多く描かれ人気を博したことには、川中島合戦が庶民の歴史として十分定着していた背景があるのだ。
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【なぜこれほど多くの『川中島』が浮世絵として発刊されたのか】
歴史上、数ある合戦の中でなぜ『川中島』がこれほど多くの浮世絵となり、また歌舞伎や人形浄瑠璃のテーマとなって江戸の人々の人気となったのでしょうか。それは徳川幕府が行った体制保持のための施策によるもののようです。特に浮世絵は当時のマスコミとも言うべき存在であったことから、その出版内容に厳しく規制を加えたのです。
法令で具体的に規制された内容は、
一、幕藩体制を批判する言論・思想・異教を版行すること。
二、織田信長、豊臣秀吉政権以後の武家について記すること。
三、社会の出来事や流行の報道や幕政批判。
四、金をかけた贅沢な印刷。
五、春画や好色本など風紀上好ましくない内容のもの。
武者絵の分野において、織田信長、豊臣秀吉より前の最も近い一大事件が『川中島合戦』であったこと、徳川幕府が甲州流軍学を採用していたことから『甲陽軍鑑』が広く読まれていたこと、加えて当時豊かになった庶民の間で旅行ブームであったこと(広重の東海道シリーズが大ヒットした所以)、つまり善光寺参りも人気スポットの一つで、川中島合戦の浮世絵が信州のお土産として恰好であった、などが考えられます。さらに幕末の維新の臭いに庶民が反応したこと、つまり、当時(幕末)の世相、事件の報道のために、なぞらえる対象として『川中島合戦』が打ってつけの題材だったのではとも考えられます(武田を徳川になぞらえた)。
この禁令による締め付けは結構厳しかったようで、本HP掲載作品の中心的絵師である国芳も、武者絵・役者絵の内容でたびたび取調べを受けたようです。「反骨の絵師」といわれる所以です。
寛政二年(1790)には検閲制度として改印(あらためいん)制度が執行され、出版物は製版前に版下を提出し許可印を画中に受けることになったのですが、この改印が制作年代を考証する重要な手掛かりとなっています。 |
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9.川中島合戦はどちらが勝った
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永禄4年の激戦のときは人的な被害は武田軍の方が多く、戦術的には上杉軍の勝利といえる。しかし、結果的に川中島に残ったのは武田方であり、その後この地方を支配したことを考慮すると勝ったのは武田方といえる。戦いだけ見ると謙信は天才的であるが、政治的な能力は信玄が数段上と言われる。上杉には北条という宿敵がいて、武田だけに全力投入できなかったことも影響していると思われます。
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10.信玄と謙信のこと、そしてその後
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信玄と謙信は戦国時代の両横綱です。年齢は信玄のほうが9歳ほど上ですが、信玄は父を、謙信は兄を退けて実権を握り、また、神仏に深く帰依していたことなど、ふたりには共通点も多くあります。しかし、性格や能力は対照的でした。戦い方もじっくりと根回しをしていく信玄に対し謙信は直感的な行動が目立ちます。戦闘力は甲乙つけがたく、信玄は三方ケ原で家康をまったく問題にせず、謙信も北陸で信長軍に大勝しています。謙信で驚くのは生涯を通じての戦いの多さです。100回以上の戦をしたといわれ、しかも負けたことは一度も無く、城にいるより出征している時間のほうがはるかに多く、これでは早死にしたのもうなずけます。家来は大変だったと思われますがよほどカリスマ性があったのでしょう。また、謙信は生涯女性を近づけなかったことで有名ですが、信玄は女性好きだったようです。
【信玄の領国経営】
戦国最強と言われる武田軍団、その軍旗は孫子の兵法書に基づいた「風林火山」としてよく知られていますが、この「風林火山」の軍旗とともに、信玄の領国経営の理念として「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、あだは敵なり。」という「武田節」の歌詞にもなっている有名な一文があります。人こそが城にも優るものであり、人の和こそ、山河の険しさに匹敵するものだと信玄は言っています。、人心掌握、適材適所の人員配置など、全ての基本を人に置いた信玄の理念こそ、最強軍団を創り上げた源となっていたのです。
・完成までに二十年かかった信玄堤
甲府盆地を水害から守るため、信玄は笛吹川、荒川などの治水を行いましたが、その技術は「甲州流川除(かわよけ)」と呼ばれ、江戸時代に模範となるほどでした。治水は新田開発を促し、農業生産力が飛躍的に増大したことは言うまでもありません。
・「黒川干軒」の繁栄 金山開発
信玄の開発した金山には、黒川山、芳山、黒桂山、御座石などがありますが、とりわけ黒川山は信玄の隠し金山といわれ、「黒川千軒」と称されるほどに繁盛しました。発掘した金は金貨に鋳造され、「甲州金」「甲金」として信玄の強大な軍事力を支えました。
・山本勘助の 築城術
信玄は二十三歳のとき、諸国遍歴の山本勘助を召し抱えました。勘助は「城取り」の名手で、武田家にはこの分野の専門家がいませんでした。勘助の極意は、籠城しやすく、攻められにくい城づくりです。城の出入り口である「虎口」には、人馬の出入りを敵に知られないよう「馬出し」という土手を築き、さらに「一ノ門」「二ノ門」を設け、「三日月堀」をめぐらしました。伊那の高遠城には、いまも「勘助郭」が残ります。
・産業振興の道路政策 甲斐九筋
甲府を起点に、信濃、駿河、関東方面に、信玄は「甲斐九筋」の街道を整備しました。これらの街道が、軍事物資の輸送や、飛脚、家臣、商人の往来に大きな役割を果たし、経済発展も促しました。また、国境には関所を設け、国境警護にも腐心しました。
・五十七箇条の法律 甲州法度の制定
「甲州法度」は、信玄の定めた甲斐国の法律です。(実弟信繁が大きく拘ったと伝えられる)
五十七箇条からなり、その内容は軍事、司法、行政にわたっています。よく知られている法度に「喧嘩両成敗」がありま。喧嘩は理由を問わず、両方とも罰するというものです。法律は秩序の確立、家臣の統制を目的にしていますが、人間信玄の精神性を知ることができます。「甲州法度」の末尾は、「もし信玄自ら法度を犯すことがあれば、同様に裁かれる。その時は誰でも投書せよ」と結ばれています。「甲州法度」は江戸時代の武士の心得として広く読み継がれたといわれます。
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【謙信の領国経営】
高々三十九万石、決して豊かとはいえない越後の謙信ですが、彼ほど戦いに明け暮れた武将はいないと言われます。しかも戦いはすべて「義」の為、領土の拡大は全く無かったのです。いくらカリスマ的リーダーだったにしても家臣団もそれなりの見返り(恩賞)がなければついてはいけないはずです。戦上手、戦の天才といわれ、その面ばかりが強調される謙信ですが、やはり並外れた領国経営の手腕があったはずと想像されます。
塩不足に困窮した生涯の敵信玄に「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり魚塩にあらず」と直ちに塩を送った「義」の人謙信、その経済政策とはどんなだったのでしょうか。
・鉱山の採掘
越後では金・銀が採掘出来る山がいくつかありました。金は、西見川金山(佐渡市真野)と高根(鳴海)金山(村上市・旧朝日村)で、銀は、上田銀山(南魚沼市)、鶴子銀山(佐渡市佐和田)です。
※佐渡金山(佐渡市相川)は江戸時代からであり、この時代にはまだありません。
・「カラムシ」の生産拡大と港湾流通
当時庶民の間の着物の材料で、麻糸の原料になる青苧(カラムシ)が主に越後国内の山間地で栽培されていました。この糸で織ったものが「越後布」と呼ばれ、木綿が普及していなかったこの時代、一般庶民の衣料として大きな市場を形成、また越後の「カラムシ」は京都のものより上質で高く売れたようです。山間地で栽培された「カラムシ」は府中(直江津)や柏崎の港に運ばれ、船便で越前(福井県)の敦賀や小浜まで行き、陸揚げされ京都に送られました。現在では「米どころ」越後として有名ですが、この時代には米よりも「カラムシ」で、生産から港湾流通に至るまで大きな収入源となっていたようです。
・謙信の多額の遺産
謙信が死去した後、春日山城の金蔵に残されていた総額は約2万7千両だったといいます。現在の価値で少なくとも数億円といわれますが、いかに「カラムシ」の経済貢献が大きかったかが想像されます。
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信玄は晩年、上洛を決意し進軍しますが、その途中持病(肺結核?)が悪化し度々喀血、甲斐に引き返す途上で病没します(元亀四年(1573))。享年五十三歳。謙信も織田との決戦を決意しますが出陣直前、春日山城にて脳出血で急死(天正六年(1578))、四十九歳でした。織田、徳川にとっては実に幸運だったといえます。後、武田家は織田によって滅ぼされますが、家臣たちは多く徳川家に召し抱えられました。家康は自分を苦しめた信玄に多くを学んだようで、その政治手法は信玄を手本にしているといわれています。上杉を継いだ景勝は秀吉によって会津へ、さらに家康によって米沢へ移されますが節々に意地を見せ、名家として明治まで存続します。
謙信のあとを継いだのは養子の景勝(謙信の甥)で、信玄の後継ぎは四男の勝頼でした。川中島で激しく戦った甲越もこの世代になると和睦の関係へと変わりました。景勝の妻は勝頼の妹(信玄の娘)です。つまり、上杉の子孫には武田の血が流れていることになります。更に、勝頼の弟(信玄の七男)信清は景勝に仕え米沢武田家として幕末まで続き、現在もご子孫がいらっしゃるそうです。
信玄辞世… |
大抵還他肌骨好
不塗紅粉自風流 |
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(大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流)
此の世は世相に任せるものだ。その中で自分を見出して死んで行く。
見せかけで生きるな。本音で生きることが一番楽である。 |
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謙信辞世… |
四十九年一睡夢
一期栄華一盃酒 |
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四十九年の我が人生も一睡の夢のようなもので、
この世の栄華も一杯の酒のようなものだ。 |
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