< META http-equiv="Content-Style-Type" content="text/css"> 板垣信方の墓、上田原古戦場 | 川中島合戦史跡巡り

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 板垣信方、雨宮刑部の墓  上田原古戦場   <上田市> アクセス

■石久摩神社本殿



<上田原合戦のあらまし>
 足掛け12年、5度にわたる川中島合戦よりさかのぼること5年6ヶ月の天文十七年(1548)二月、武田晴信(後の信玄)は大軍を率いて小県郡に攻め込んだ。地元葛尾城主村上義清はこれを迎え撃ち、同月十四日この地で激しい合戦が行われた。武田軍、村上軍合わせて戦死者数千人といわれる大合戦で、まさしく後の川中島合戦の前哨戦といえる。
石久摩神社はこの合戦の中心部に位置すると思われることから昭和44年に上田原合戦の碑が建立された。合戦時はこの附近に信玄の本陣がおかれたとの説がある。
■上田原古戦場の碑



この戦いで武田軍は破れた。地の利を十二分に生かした村上義清に、武田信玄生涯で最大の負け戦といわれる。神社の裏手には水田が広がり、その畦に無名戦死者の墓がある。昔は附近一帯のそこかしこに点在していたようだ。
■村上軍の将・雨宮刑部の墓


 
 天文十七年(1548)二月、甲斐の武田晴信(後の信玄)は大軍を率いて、小県郡に攻め込んだ。地元葛尾城主村上義清はこれを迎え討ち、同月十四日この地で激しい合戦が行われた。この戦いで武田軍は破れ、重臣板垣信方・甘利虎泰・才間河内守等討死、晴信も傷を負ったが、村上軍も雨宮刑部・屋代源吾・小島権兵衛等が討死し決定的な勝利を得ることができなかった。
 ここから南方に望む倉升山一帯には、物見山・合図山・兵糧山・御陣ヶ入・御陣ヶ原・鉦ヶ窪・味方原等武田軍の布陣を示す地名があり、転じて北西には村上軍が陣をすえたと伝えられる天白山があり、下って物見塚・産川崖上には三兵・村上の旗を立てたという旗塚の跡等あり、共に今も小字名として残されている。


                             -現地案内文より転載-
■無名戦士の墓





■板垣神社鳥居



 武田一族の信方は、信虎・信玄の父子二代に仕えた重臣(家老)である。始祖は甲斐源氏の板垣三郎兼信で延徳元年(1489)に生まれた。
青年信玄のよき補佐役となり、若き信玄にとっては頼りがいのある武将であったといわれる。天文十一年(1542)六月、信玄の諏訪攻略の副将となって采配をふるい、諏訪郡代になる。天文十七年(1548)二月、信濃の雄村上義清との上田原合戦が下之条から上田原附近で行われ、浦野川や産川を境として激戦が展開された。この戦いで信方は下之条附近に於いて村上軍と戦い壮烈な討死を遂げた。

(現地説明文より)
■板垣駿河守信方の墓

 信方の墓は壮烈な討死を遂げたこの地(下之条)に板垣神社として祀られている。信方は愛煙家であったと言い伝えられ、今もこの墓には訪れる人々によりタバコが供えられている。
 五輪塔と並び立つ碑には、
「もののふの夢さますなよ鉦叩・里庵」とある。


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