■桑山茂見の墓(狐丸塚)
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桑山茂見は武田方の小笠原若狭守長詮(おがさわらわかさのかみ・ながのり)の家臣である。永禄四年(1561)九月十日、霧の中での混戦と上杉軍の奇襲攻撃で、武田軍は典厩信繁、山本勘助、諸角豊後守が相次いで討死した。小笠原若狭守も三階菱の旗を立てて奮戦したが家来もほとんど討たれ、若狭守も上杉軍に囲まれてしまった。今はこれまでと敵中に討って出ようとする時、桑山茂見が押し留め、「私が身代わりとなります。殿は逃れて再起を。」と誡め、主人の鎧、兜を着し、若狭守に姿を変えて、賜った主君の愛刀「狐丸」を振りかざして敵中に討って出て戦死した。この茂見の働きにより若狭守は越後の雑兵にまぎれて窮地を脱したという。
合戦後、散乱した遺体や武具類をかき集めた塚に夜な夜な狐が集まるのを里人が不思議に思い、塚を掘ったところ狐丸の太刀が現れたため、里人は茂見の死を哀れんで墓を立てて茂見の霊を弔ったという。
—「川中島の戦い」ゆかりの地整備保存会現地資料を掲載—
小笠原若狭守長詮…伊那小笠原氏の一族
小笠原氏は甲斐源氏の嫡流である武田氏に対し、加賀美氏流であり庶流にあたるものの、格式や勢力の上では決して武田氏に劣ることなく、全国各地に所領や一族を有する大族である。室町時代以降、武家社会で有職故実の中心的存在となり武家の伝統を重んじ継承していたことから、時の幕府からも礼典や武芸の事柄においては重用されていた。これが今日に知られる小笠原流の起源である。
鎌倉時代から信濃に本拠を移し、室町時代には幕府から信濃の守護に任ぜられた。嫡流は信濃と京都に分かれ、庶流は信濃国内はもちろん、阿波、備前、備中、石見、三河、遠江、陸奥にも広がった。戦国時代には小笠原氏の宗家は武田氏に所領を奪われて没落するが、安土桃山時代に再興し、江戸時代には譜代大名となった。
—Wikipediaより引用—
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