■諸角豊後守の墓
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諸角豊後守の墓は近辺の人々からは「もろずみさん」と愛称されているばかりでなく、墓のある長野市稲里町塔之腰には「諸角講」がある。この集落に居住するものは新旧を問わず講仲間に加入し、この人々によって豊後守の墓は維持管理され、今日も集落あげての春秋二回の祭典が行われている。この講がいつごろ結成されたか講の人々すら知らないところをみるとかなり以前から「諸角講」が存在していたものと思われる。豊後守の墓のある辺りは、もと浄真寺の境内地の一角であったと伝えられている。浄真寺は永禄四年の八幡原の激戦で兵火にあい、この地に再建されることなく文禄二年(1593)千曲川右岸の長野市松代町西寺尾に移し建てられた。「塔之腰」という地名は、この浄真字の堂塔附近にあったところからついたという。
良く手入れされた生垣に囲まれた百平方米ほどの墓地内には明治二十六年(1893)豊後守の子孫によって建てられた角柱墓碑の後ろに豊後守の墓と伝えられる古い五輪塔がある。 ここを死に場所とした老将、諸角豊後守の無念さや心情に寄せた里人たちの優しさと思いやりは、今でもこの地の人々の心の中に生き続けているのだ。
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