■妻女山
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永禄四年(1561)九月の川中島合戦のとき、上杉謙信が陣営を設けた山で、この平地は陣場平、その西南は千人窪と称し、伏兵千人を潜ませたと伝えられている。川中島平は一望の中に入り、海津城の動静を伺い得る地である。九月九日夜、山を下り雨宮の渡しを渡ったのが、かの有名な「鞭声粛々・・・・」の詩となり、また「西条山は霧深し、筑摩の河は浪あらし・・・・」と学校唱歌などにうたわれている。この社殿は戊辰戦争の戦死者を祭る招魂社。
八月十六日、上杉軍は妻女山に一万三千の陣を置き、武田軍は茶臼山から八月二十九日に海津城に入り兵力を二万とした。九月九日夜、武田軍は山本勘助の案により軍を二隊に分け、一隊が夜陰にまぎれて妻女山に進み、翌未明に奇襲攻撃をかけ、上杉軍が山を下るのを残る一隊が八幡原で待ち受けて挟撃する「啄木鳥の戦法」を実行したが、謙信はそれを見破り、九日の夜ひそかに山を下って雨宮から千曲川を渡った。九月十日、川中島は深い霧の朝だった。上杉軍の予期せぬ攻撃と「車がかりの戦法」によって武田軍は大混乱に陥り「鶴翼の陣」を敷いて応戦したが大苦戦を強いられた。しかし、妻女山へ向かった別働隊の到着によって形勢は完全に逆転、上杉軍は善光寺へと敗走したのである。
左の碑は謙信が槍の尻で地面を突いたところ泉が湧きでたという伝説をもつ上杉謙信槍尻之泉(やりじりのいずみ)の碑で、山の西側にある。
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◆両軍の布陣と動き
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◆茶臼山・国見台から妻女山方面を見る(妻女山からの眺めはタイトル背景に使用しています)
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信玄は茶臼山の本陣の一角であるこの地に立って指呼の間である上杉謙信の本陣、妻女山を見下ろし敵方の情勢を探った。双方の緊迫した睨み合いの末、永禄四年(1561)旧暦八月二十九日、信玄は茶臼山の本陣からこの道を小森に出て海津城に入った。今この地に立てば、右に姨捨山、聖山を望み、坂城、上山田、八幡と信玄の進路が連ねて眺められ、正面には妻女山、象山、松代、川中島古戦場を眼下に見下ろし、遠く飯綱山、戸隠、菅平の山並みを望み、まさに天下の景勝地である。
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